「のれん式」という仕事の作法 その5

<布きれ一枚、そのこちら側>

 ──── 「暗い」

 暑い夏の日ざしを避けて、丸に越の字の紺暖簾をくぐって店内に入ったとたん、高橋義雄の受けた印象がこれであった。

(同じ三井でありながら、銀行とはまるで違う。明治の御世も二十八年というのに、ここはまだ江戸時代がそのままつづいている)

 

 引用したのは「三越三百年の経営戦略」(高橋潤二郎著 1972年刊)の一節。三井銀行大阪支店長だった三五歳の高橋義雄が、経営の立て直しのため、越後屋・三井呉服店(後の三越百貨店)に初めて訪れたときの模様が小説風に書かれています。

──── この第一印象は奥の一間に入り、(中略)主だった人びとの慇懃な挨拶を受けるに及んでいよいよ深まり、高橋は、今さらながら自分の引き受けた仕事の重みを感ぜざるをえなかった。

暖簾の歴史が明治時代へすっ飛んでしまいましたが、それなりの理由はございます。室町時代から約五百年、現代の感覚からすれば、どの店も“売りもの屋”としか言えなかった素朴な場所が、商いの内容も店の構えも、商家と呼べるまでになりました。なかでも江戸時代に商売を拡げたいくつかの大店は、百貨店の形を取り始め、様相も一変しつつありました。とはいえ、暖簾が“布製ドア”として機能していたことに変わりはなかったのです。繰り返しになりますが、商売用具としての暖簾の基本的な働きは、定着し始めた時代から今日に至るまで、ほとんど変わっていないのです。

「この長暖簾を店土間と奥との通路にかけている店もある。この場合はこれを潜り(くぐり)暖簾と呼び、また店座敷と奥座敷との境に、この長暖簾をかける場合もある。これを座敷暖簾という。」(「暖簾考」より)加えて店の表側には、シーツのような太鼓暖簾(風に吹かれるとバタバタと太鼓を打つような音がするから)があったわけで、あちこち暖簾だらけ。主人も店員も、毎日毎晩、店の暖簾に囲まれて生活していました。

ここで話したいのは前述した(B)の事態がもたらしたメンタリティーについてです。近代的経営に辣腕を振るい、茶人としても名を成した高橋義雄が、暖簾を潜ってピンときたのは、言うまでもなく当時の三井呉服店の雰囲気の暗さ、経営の重さです。そのとき彼は暖簾の“外側”から来た人でした。

一方、内と外を仕切る布製ドアの物理的機能にこだわり、その内側の商人や職人に思いを馳せれば、ひとつの強固な仲間意識を思い浮かべることができます。そもそも、ヒラヒラした木綿の布一枚で、こちら側と向こう側を仕切ったと決め込むなんて、暖簾とは無縁の外国の人にはとうてい理解できない合理性であり、想像力の逞しさです。身勝手と言えるほどです。

客との境界をきっぱりと示しているような、それほどでもないような。遮蔽性という意味でも、内側の様子が見えるような、見えないような。昼間のうち外の光を遮るような遮らないような、夜は店の灯りが漏れないような漏れるような。暖簾が仕切るこの独特の空間で一日中、そして一年中、さらに何年も何十年も働いていたら、暖簾エートスとでも表現したくなるものが生まれてもおかしくありません。

僕の田舎(伊豆)の生家は、昭和の初期に小さな料亭をしていました。その後、同じく小さな割烹旅館に業容を変えたあと、時代の変化とともに尻すぼまりになって廃業したのですが、暖簾の内側で暮らすことの気分は理解できます。

西洋の文化が石と鉄に象徴されるとすれば、日本の文化は木と紙の文化であり、その延長線上に布製ドアの存在があったと言えるでしょう。ヒラヒラした暖簾一枚で内と外を仕切っている(仕切っていることにした)ため、内側にいる人間は、内側であることをより一層意識する必要が自然発生的に生まれたとは考えられないでしょうか。物性的に足りないところは気持ちで補う。まさしく精神論ですが、その結果、同じ店の人間であるという気持ちを年がら年中確認し合っているという、相互監視であり相互扶助でもあるような、お馴染みの日本的精神をもたらしたのでしょう。仕切り道具としての暖簾の存在が、利害や性格の違いを超えて、家族や使用人同士の絆をつなぐことにひと役買ったのです。商家内における自然で微妙な仲間意識、それが暖簾エートスです。

 さて、この場で考えていることは、森友学園加計学園において討議されている問題ほど複雑でないはずですが、話が少々理屈っぽくなってしまいました。

けれども、「のれん式」は暖簾と“のれん”の関係性を解析することによって・・・いけません、また理屈っぽくなっちまった。