「のれん式」という仕事の作法  その3

<暖簾は内、暖簾は外>

    訂正です。日本の暖簾の実用的機能として、「日除け・埃除け」と書いてきましたが、あとから言及するという意識が災いして肝心なことを除外していました。「日除け・埃除け」だけではなく、当然のことながら「目隠し」の用途がありました。付け加えておきます。

  

鎌倉時代から室町時代にかけて、民家の暖簾が商いの場でも利用されるようになったのですが、その過程で加わった注目すべき変化は大きく分けて二つあります。ひとつは、(1)暖簾に商売用の目印・屋号が染め付けられたこと。もうひとつは、(2)店の中と外とを仕切るほどの、単なる目隠しの域を超えるような長い布の暖簾が用いられたことです。(ちなみに暖簾は、おおざっぱに言って、横に長いのが水引き暖簾、縦に短いのが半暖簾、縦に長いのが長暖簾、店先に置くシーツのように大きいのが太鼓暖簾、という発達を遂げています)実はこの何気ない二つの性質が、その後“のれん”という概念を形成する上で重要な役割を果たすことになったと僕は考えています。

ではここで、さらにまた別の生き証人に登場願いましょう。「福富草子」という室町時代の絵巻物です。日本史の教科書におけるレギュラーメンバーにはなっていないようなので、知名度は低いようです。けれどもその物語は一度聞くと忘れられません。暖簾の史実とは直接的なつながりはないのですが、なりゆきですからページを割いてちょっと紹介しましょう。

正直者が得をして嘘つきの欲張りは損をするという教訓寓話は世界中にあって、なかでもイソップの「金の斧」は有名です。「福富草子」も同じ系列に属するといえるでしょう。しかしそのモチーフが、かなりお下品。なにしろ斧に相当するものが放屁、つまりお金になったオナラの話なのです。以下、そのあらまし。

貧しい男がある日神のお告げを受け、いろいろな放屁をする奇芸を身につけて披露したところ、貴族に喜ばれて大金をもらいました。それを知った隣の男は、とてもうらやみ、さっそく自分も放屁の芸を真似て、人前でやってみたのです。ところが大失敗、ことがことだけに悪臭や汚物をまき散らし、どうしようもないことになってしまったとさ。

谷峯蔵さんが「暖簾考」を書いた時代と違って、今は自分の家で横になっていても様々な絵巻物史料を見られますが、「福富草子」もそのひとつ。なかでも白百合女子大学図書館のホームページにおける所蔵貴重書コレクションは、秀逸です。全編オナラの話で満ちている絵巻物をなぜ白百合女子大学が所蔵しているか知りませんが、閲覧環境が良く、鮮明な画像情報を提供してくれています。

注目すべきは個性的な登場人物や放屁の風景ではなく、あってもなくてもいいような、点景として描かれているひとつの暖簾。絵巻物の中には、団子のような食品を売っている店の女と子供が、哀れな男を背丈ほどの長暖簾の脇から笑って見ている場面があります。(白百合女子大学所蔵版ではNO.10/19の画像)それは明らかに店の内と外を仕切っている長暖簾で、布には何か植物の絵(写本によって違いあり)が染められているのが分かります。

素朴な商品陳列棚の横に出入り口があり、そこに垂れ下がっている長暖簾。前述した「山王霊験記」の魚屋の暖簾と形状も使われ方も瓜二つです。すでにこの時代、商いをしている家の暖簾は、そこの人が創造的に作った目印であると同時に、店の内と外を分ける仕切り布でありました。今日的な言い方をすれば、客の目を引くオリジナルサインであり、内側の諸々を隠すパーティションでもあったのです。この二つの機能は、後に“のれん”と呼ばれるようになる商家の無形資産(価値)を分析、説明する上で非常に重要なヒントを与えてくれます。

さらに付け加えたいのは、時代が進むにつれて、暖簾の目印がその店の呼び名になったケースがあること。たとえば竹の絵を染め込めば「たけのや」、梅の花なら「うめのや」というわけです。屋号を作って暖簾に入れるのではなく、暖簾に入れられた図柄が屋号になった場合も少なくなかったようです。結果的に暖簾は、その店のサインとして取り扱い品や他の家との識別性などを単純に示すばかりか、屋号や個性、印象などを意味するというシンボル的な価値を持つことになりました。この要素もまた、暖簾という布製の商売用具の名称が、“のれん”と呼ぶ商家の無形資産の名前にもなった背景の一端を物語っています。