「のれん式」という仕事の作法  その2

<暖簾の顔はひとつじゃないよ>

ここでさらに別の絵巻物を参考にします。こういう場合、絵巻物はいわば唯一の生き証人ですから、頻繁に登場願わざるを得ないのです。谷峯蔵さんは次のように書いています。「鎌倉時代中期の正安元年(1299年)に成った「一遍上人絵伝」には、白布、色布の暖簾のほか、明らかに目印と見られる鶴を暖簾の中心に画いた三幅の長暖簾が民家の門口にかけられている。(中略)「山王霊験記」(14世紀後半=筆者註)には二引両を白抜きに染め抜いた三幅の暖簾と、その隣家には地紋風に模様のある長暖簾から女が表を覗いている商家(魚屋=筆者註)の様が画かれている。これら資料によれば暖簾に意識的に標識、目印が入るようになったのは鎌倉中期からと言うことができる。」

鎌倉時代に入ると、大量な宋銭の流入などの影響もあって、商業が活発になったのはよく知られたところです。商売をするための家があちこちにでき、そこが店舗であることや何を扱っているかを知らしめるために、暖簾が利用されるようになったと考えられます。日除け、埃除けのために使われていた暖簾が、その用途に加え、発達し始めた商業活動の中において、別の機能を持つようになりました。

「苗字も家紋もない庶民が、自家の目印として武家の家紋、旗印を真似て利用し始めたものを、商家が見習い、自家の目印・屋号の表示に積極的に利用するようになったと判断され、その時期は以上の資料から見れば、室町中期からと見るのが妥当と思われる。」

と谷峯蔵さんは著作の中で記し、単に暖簾学のみならず、広く文化人類学的な意味においても興味深いポイントを指摘しています。そして「広告の媒体として開花」というタイトルのもとに、越後屋を中心とした、江戸時代の大店の広告看板的な暖簾が成立する道筋をたどっていきます。けれどもこの小論においては、室町時代に立ち止まり、暖簾が持ち始めた新しい機能について、掘り下げてみたいと思います。江戸から明治に至る間、暖簾を商売道具とする商人が、“のれん”と呼ぶことになる無形資産を形作っていくきっかけは、この時代にあったと僕は考えているからです。

 

<暖簾はささやかながら表現行為>

商人が、日除け、埃除けのために軒先から垂らした布に、目印や屋号を染め抜いたことが、支配階級である武家の家紋や旗印を真似た行為だとすれば、暖簾は実用性を超えて、新しい意味を持ち始めたと言えます。「暖簾考」の著者である谷峯蔵さんは、それを広告行為の源流としてとらえていくわけですが、ここにおいては、少し違った見方をしたいと思います。「苗字も家紋もない庶民が、自家の目印として武家の家紋、旗印を真似て利用し始めた」のですから、そこには制作における意図があったし、それなりの美意識が働いたはずです。

たとえば洞窟壁画に、呪術的な行為をするためのイコン(図像)としての実用性もなくはなかったのでしょうが、おそらく旧石器時代の人は、ただ単純に殺風景な岩の壁面を装飾したくて動物の姿などを描いたのでしょう。子供が白紙を見れば何かを画いてみたくなるのも、人間には、食欲、睡眠欲、性欲などと同じように、基本的な欲求として装飾欲(表現欲)というのが備わっているからだと考えられます。そして表現行為というのは、大人にとっては自己確認の行為でもあって、自立した個人の痕跡を示します。

当時の人は、日除け、埃除けの目的で軒先から垂れ下げていた白い布に、何かを印さないわけにはいかなかった。他人から見れば、ヘタクソであろうと意味不明であろうと、ささやかながらひとりの人間の表現行為として、自分の家の暖簾を作った。それを店先の暖簾として利用したのが、商いをする人として自立しつつあった室町時代の商人でした。