「のれん式」という仕事の作法 その4

<いつもの名前で出ています>

室町時代に、民家の生活用品としての暖簾が商家の商売用具としての暖簾に転化しました。そしてその商売用具としての暖簾には、商業の発展とともに、つまり商家の活動の充実とともに、新しく二つの大きな状況が生まれました(完成をみるのは江戸時代)。ひとつは、(A)トレードネームやトレードマークが染め付けられた結果、人が行き交う町の中において、ひとつの表象性(目に見える意味性)を持ったこと。ひとつは、(B)店で働く人にとって、目隠し・日除け・埃除けといった機能を超え、店内と外の世界(客や往来)を仕切る、もしくはつなぐ“布製ドア”となったことです。

ではまず(A)の事態が、“のれん”の価値のどんな要素を生み出していくことになるのか、私論を展開していくことにします。前のパラグラフで、暖簾がサインとして、またシンボルとしての働きもするようになったと書きました。このあたりの事情を、やや横道にそれますが、個人ブログの自由さに甘えさせてもらって、“記号論”的に説明してみたいと思います。

 記号論といってもここでは、二〇世紀後半に流行った構造主義の、弟分のよう

なあれとは“流派”が違います。記号(主に視覚的表象)を、その働きや意味することの広さ、複雑さなどによって、シグナル、サイン、シンボルの三段階に分けるという、単純で理解しやすい分析法です。

たとえば魚屋を始めた太助さんが、店の暖簾を海の色に染めたとしましょう。けれどもその段階では、太助さんに「暖簾の青は海を象徴していてウチ店の目印なのですよ」と教えられなければ、客は意図しているところが理解できません。けれども一度その事実を知り、さらにまた別の魚屋の暖簾も青く染められたりしたら、多くの人が暖簾の青は魚屋の目印であると思うようになります。その段階の暖簾を、魚屋のシグナルと呼ぶことができます。シグナル、つまり信号ですから、交通信号の緑・黄・赤や手旗信号、昔のモールス信号などをイメージすれば、それ以下でも以上でもないという意味のレベルがよく分かるでしょう。室町時代初期の物売り屋の暖簾は、何かの意味を伝達していたにしても、シグナル的な段階だったと仮定できます。

 では太助さんが商売をしていくうちに、無地の青い暖簾では飽き足りなくなり、子供が描いたような単純な魚の図形を暖簾に染め入れたとしましょう。この場合はもちろん説明不要、誰が見ても魚屋であることがわかります。町に初めて訪れた人でも、太助さんの店で魚を買うことができます。このとき暖簾はそれ自体が魚屋を表しており、サインとしての働きを持ったと言うことができます。

 次に、太助さんの商売が繁盛して、暖簾に見事な鯛の絵を入れ、「ととや太助」

という屋号もいっしょに染め込んだとしましょう。客たちはもちろん、通りがかりの人も暖簾を見て、立派な魚屋だとか新鮮だけれど値段が高いのではないかとか店主の性格が分かるとか、いろいろなことを考えます。こうなると「ととや太助」の暖簾は、ただ単に魚屋であることを伝えているだけではありません。長く使えば使うほど、単なる商売用具の域を超え、店のシンボルになっていきます。

江戸時代の呉服商や両替商などに代表される大店の暖簾は、あきらかにシンボルとして機能しており、主人から丁稚に至るまで、店で働く人の気持ちをひとつにするという非常に重要な効果も生まれていたのです。

 暖簾のこのような側面はブランドの概念を彷彿とさせ、一九七〇年代の初め頃は広告・マーケティング界などにおいても、ブランドは日本の“のれん”のようなものだ、と決め込む人も少なからずいました。たしかに、シンボル機能という部分だけをとればそうなのですが、“のれん”とブランドは、本来、民族性が違うと言えるほどそれぞれ異なる血筋を有しています。したがっていずれ「ブランド式」のほうも説明したく思いますが、まずは引き続き「のれん式」の原理・原則のようなものを浮き彫りにしたいと思います。

とはいえ、暖簾の話ばかりで、このブログの所期の目的である「のれん式という仕事の作法」に、いつたどり着くのかと不安になる読者の方がいるかもしれません(読者の方がいればの話ですが)。しかしできるだけこちらの気が済むように段階を追って説明していますので、まだまだ道半ばというところです。アベノミクスじゃあるまいし、いつまで道半ばが続くのだ、と揶揄されたとしても、この調子は変えません。次の回は、(B)の事態について。