「のれん式」という仕事の作法 その9

<商ほど素敵なものはない?>

僕の世代は、江戸時代に士農工商身分制度があったと教えられました。何か変だなあと思いながらも、反論するにもその材料を持ち合わせていないので、そのまま大人になりました。それほど昔のことではありません。士農工商を学校で教えなくなったのは、平成の時代に入って、だいぶ経ってからのようです。

越後屋、おまえも悪よのう」「いやいや、めっそうもございません」。そう言って武士と商人が、クククッといやらしく笑い合うような場面は、実際にあったのでしょう。けれどもそんな会話が成り立ったのは、身分のいちばん上といちばん下だからではないことが、はっきりしました。「悪」の程度にもよりますが、商人は、有力顧客である武士に取り入ってたっぷり儲ける。武士は武士で、商人の金融力をとことん利用して、自らの出世を企てる。身分の上下はないのですから、お互いがお互いの利益を図るウィン・ウィンの対等な関係、とも言えます。・・・しかし、天からそれを見ていた神様、あるいは仏様は、「おい、お前たち、そんなことが長続きするとでも思っているのか、恥を知れえー」と怒ります。

そう、のれんの最大テーマは長続きするかしないか。それも子々孫々まで何代にも渡って。このときの越後屋さんは、もし彼がのれんを守るというような意識を持ち合わせていたとしたら、あきらかに自己矛盾に陥っています。良く言えば越後屋さんは、すでに近代的資本主義を実践していた、ということになります。

のれんは、イエ思想やイエ精神が商家の経営論理(もしくは経営倫理)に変容したものです。その究極的な目的は、商売の拡大でも資産の蓄積でもなく、自分たちの商家を永続させることにありました。“太く短く”でないことはもちろん、“太く長く”を求めるのでもなく、“細く長く”がのれんの原理・原則です。したがって、細く長く精神を失えば失うほど、ピュアなのれんは影をひそめていく結果につながるのです。

「商家の家訓 商いの知恵と掟」(山本眞功監修2005年)には、江戸時代に大阪の摂津で始まった鴻池家の家訓の現代語訳が載っています。

その中で大名との取引について、

「利益に目がくらみ、おぼつかない方との取引をしてはならない。間違いのない取引のみにして、貸付金が多くならないようにすること。末代までもこの心得を持って家業を勤めるように」

と書かれています。また、ほかにも

「本業以外の商売は決して行なってはならない。思いついた商売をやるようなことは、末代まで無用のこととする」

「品行や身持ちの悪いものがあれば、許しておいては子孫の繁栄が実現できなくなるため、ほかに相続人を立てるようにすること」

というような家訓を紹介しています。

鴻池家は造り酒屋で成功し、海運業にも進出、一七世紀後半には幕府の御用両替商として莫大な富を築きました。三井や住友などと違って、明治以降の大財閥の一角を占めるまでには至らなかったのですが、文字通り“太く長く”を例外的に実践した商家の同族団です。

しかしお分りのように、現実の姿と家訓との間にはだいぶ距離がありました。家訓はあくまで家訓ですから、世間に向かって宣言したわけではありません。僕のような“のれん原理主義者”を別にすれば、その事実を気に留めるようなへそ曲がりはいないでしょう。それはともかく、この家訓に注目したのは、鴻池の事実に反して、“細く長く”の、のれん精神が具体的に示されているからです。いわば、のれんの掟(商人のイエの掟)が端的に列挙されているのです。

いわく、「利益を追うな」「商売の手を拡げるな」「相続は血縁にこだわるな」、それらを「末代までも続けよ」。別の言い方をすれば、家人が一致して家業(イエ)を続けて行くため、利益を追わず、商売の手を拡げず、相続は血縁にこだわらずにやりなさい、ということになります。言葉どおりに実践したら店の小規模、無名は避けられません。しかし、それがどうした、だから何だと言うのだ、長生きに勝る人徳があるとでもいうのか、と多くの商人たちは考えたのでした。まさしく、のれんの精神です。

「のれん式」という仕事の作法 その8

<イエ・イズ・ノット・ア・家>

ピンときた方もいるでしょうが、上の奇妙な見出しは、ジャズのスタンダード・ナンバー、「ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム(House Is Not a Home) 」を捩っています。BバカラックH・デイヴィットのコンビによる作品(映画の主題歌)ですから、ジャズ色はそれほど濃くはなく、初めに歌ったのはディオンヌ・ワーウィックです。タイトルの意味は、愛する人の去った家はただ椅子や部屋があるだけでホームではない、ということ。愛に破れ、あとに残された人がその想いを切々と訴えるわけですが、僕にとっては、何より英語のhousehomeの違いを意識づけられた歌でありました。

普段の生活では気にも留めていませんが、「家」という言葉の意味するところが異常に広いという事実は、日本語の中に隠然と浸み込んでいます。「家のぬくもり」というときの「家」は、英語ならあきらかにhomeでしょう。また英語のfamily treeを日本語に訳すと、家系図です。つまり人(家族)の系図が、家の系図になるといった具合。数え上げればキリがありませんし、その原因を成している日本独自のイエ思想とそれが形となった社会制度(以下、まとめてイエ制度)に関する論説は百花繚乱、尻込みしてしまうほどたくさんあります。いや実際、僕は尻込みをしています。あえて取り上げるまでもないことですが、社会学民俗学文化人類学も文学も法学も経済学も、皆さんそろってアプローチしています。

しかしその事実をちょいと脇に置き、“誰でも知ってるイエ制度”のレベルで解説してみましょう。まずは、その始まりから。イエ制度は相続制度に端を発しています。代々の相続について、一般の平民が天皇家のやり方を真似た、もしくは真似させられてでき上ったのではないか、とする意見がありました。父系の直系血縁を絶対的に重視するべきであり、長男の相続を基本とする。儒教思想の影響もあり、それを制度化して維持していくことが無暗な相続争いを避け、社会を安定させ、人々の心の平和を保つことになるというわけです。今でもそう思っている人は少なくないかもしれません。ところが、ここがまた厄介なところなのですが、実際の相続は、特に商家の場合などは必ずしもそうではありませんでした。跡を取るべき長男がぼんくらの場合は、さっさと別の人間に家督を譲りましたし、いわゆる婿養子を家長・店主にさせることも頻繁にありました。才能を見込まれて、のれん分け(別家)という形でなく、血縁のない番頭が主家・本家を継ぐケースもけっこうあったようです。血縁の相続一本鎗で、それが可能でない場合はお家断絶というのなら分かりやすいのですが、伝来の形式よりもその場の実利を優先したケースが少なくなかったのです。

ちなみに、イエ制度のルーツを天皇家に求めず、「藤原道長に始まる摂関家こそまさに、イエの始まり、モデルとなったのである」(「イエ社会と個人主義」平山朝治著 1995年)とする本もあります。娘の婚姻を自家の発展に利用した平安貴族は、その相続も天皇家に比べれば多様性があったからでしょう。

イエ制度はとらえどころのない部分もありますが、江戸時代までの武家の制度や明治民法の家族制度の根幹であり、またその影響は現代の我々の生活にも及んでいます。執念深いと言いたくなるほどです。

「日本社会に根強く潜在する特殊な集団認識のあり方は、伝統的な、そして日本社会の津々浦々まで浸透している普遍的な“イエ(家)”の概念に明確に代表されている。」(「タテ社会の人間関係」中根千枝著1967年)

「特殊な集団認識」とは、我々が自分の所属する職場である会社や官庁、学校などを「ウチの」と言い、相手のそれを「オタクの」と表現するようなことを指します。「私は」でなく「ウチは」であり、「あなたは」でなく「オタクは」であることに目を向けなければなりません。我々の人間関係は、知らず知らずにイエ(家)を前提としているのです。

具体例を付け加えるなら、例えばテレビのレポーターが中年以上の一般男性に対し、何のためらいもなく「すみません、そこのおとーさん」と呼びかけ、女性に対しては「ちょっといいですか、おかーさん」などと語りかけるようなこともそうです。そして相手のほうは、たとえ子供なんかいなくても「はーい」と迷いもなく返事をしてしまう。また結婚式場においては、新郎新婦の名前が使われず、“〇×家と×〇家の婚礼会場”になってしまう。好ましいとはぜんぜん思いませんが、どれも日本の伝統的なイエの概念をベースにした認識が現われたものです。

僕の付け足した例はともかく、中根教授が指摘した日本人特有の集団認識の具体例は、まさしく前に述べた“暖簾内(のれんうち)”の言葉に直結することが分かります。もちろん偶然の一致ではありません。中根教授が言う「ウチとオタク」のウチという和語は、漢字をあてはめれば“家”ですが、“内”でもあります。商家の長暖簾の内側で生まれたのれんの概念とウチの概念は、共通しているのです。力ずくで三段論法式に単純化しますと、イエ=ウチ、ウチ=のれん、よって、のれん=イエ。

商人は自分たちのイエ思想、イエ精神をのれんと呼び、商売の長期継続(拡大繁栄ではなく)のために徹底的に磨き上げたのでした。

「のれん式」という仕事の作法  その7

<ピュアなのれんを追いかけて>

さてお分りのように、この先、暖簾と“のれん”に加え、家と“イエ”の区別もしながら書いていく必要があります。我ながら実に紛らわしいと思っていますが、仕方ありません。とはいえ話がここまで来れば、暖簾という漢字は後ずさりするように姿を消し、ようやくひらがなの“のれん”が主役となります。

また、前のパラグラフで「商人の集団意識」と書きました。今どき商人という言葉を使っているのは、シェイクスピアくらいのものでしょうが、このブログはのれんの精神が形成された時代を前提としているので、これ以降も“商人”は顔を出します。商人にとって、のれんは命であり、のれんにとって、商人は命なのです。

はっきりとした線を引くことはできませんが、のれんが本来の意味を維持していたのは、商人が巷を行き来していた時代までだと僕は勝手に考えています。彼らが社員とか経営者、資本家と呼ばれるようになると、のれんは本来の意味を失い始めました。さらに時代が下り、類似概念である“ブランド”がアメリカからやってくると、ますますピュアなのれんを見かける機会が少なくなってきました。

振り返れば、僕が学園紛争後の大学を何とか卒業し、広告の仕事に邁進し始めた一九七○年代半ば。コピーライターというのは複写機関係の職業だろうと思っているような学生が、マジいた時代。つまり昭和がバリバリの現役だった頃、業界の片隅で、例えばこんな会話もありました。

「ブランドっていうのは、どういう説明をすれば得意先に分かってもらえるんだろうか」

「日本で言うところの、のれんと考えればいいのさ、難しく考えちゃいけないよ」

平成の今となればなおさら、のれんとブランドは、その性格も能力もほとんど同じであり、違うのは国籍くらいのものだと受け取れられているかのようです。商人という言葉が死語になりつつある現在の感覚でのれんの原理・原則を抽出すると、夾雑物が混ざってしまうので、気をつけなければなりません。

別な言い方をすれば、のれんが原型を保っていたのは、暖簾が商家の用具として実際に使われていた時代までということです。暖簾内とは、同じ系列の商家で働く人たちのグループを指す言葉ですが、同じデザインの長暖簾の内側で働くという、文字通りの即物的な意味あいを認めることもできます。現在、“のれんを守る”ことを誇りにしている老舗企業は少なくないと思います。しかしそのほとんどが、暖簾を自社の近代的なビルのインテリアやアクセサリーとして用いているでしょう。店舗の設計上、そうせざるを得ない状況になっているのですから、少しも文句はありません。けれどもそこに純粋なのれん精神を求めるわけにはいかないのです。のれんは単に店の歴史の蓄積を表す言葉ではなく、そこには、商人たちの生活理念や商売方針がたっぷり含まれていたのです。のれん原理主義だと白い目で見られることを覚悟の上で言いますと、混じりけなしのピュアなのれん精神は、もはや歴史の中にしかありません。その歴史をほじくり返して「のれん式」を浮き彫りにし、現実的な「仕事の作法」に応用しようというのがこのブログです。

さて、堂々巡りをしているようで恐縮ですが、問題は“イエ”です。商人の世界において、本家・分家・別家の区別を可能にした、つまり、商家の最重要事項である“のれん分け”を実現させたのがイエ思想です。今でも結婚式場などの因習としてしつこく残る、イエ思想なくしてのれんの形成はあり得ませんでした。

「のれん式」という仕事の作法  その6

<のれんの中にイエがある>

店舗の暖簾、その初期の段階では、目隠し・日除け・埃除けという物理的機能に加え、目印になる図形とか屋号などを布に染め込むことによって、店の独自な存在を示す記号的要素を生み出しました。そして商人たちが武家を真似て自家の紋を作るようになると(武士たちの陣幕に憧れたという説もあり)、家紋入りのものが多く現われ、暖簾は●その店のシンボルとして機能するようになりました。

また時代が進み、主人家族のほかに使用人もいるような商家では、暖簾の可変型パーティションとしての機能が、店の内側の空気を一種独特な濃密さに保ちました。その結果暖簾が、●商家で働く人たちの商家ならではの絆(仲間意識)を、知らず識らず強めるような働きをしたと考えられます。有名な三井家、鴻池家、住友家などが大商家として出現するようになった江戸時代の享保年間(十八世紀初め頃)には、暖簾の形状や使用上の機能は、ほぼ完成されていたようです。

暖簾の話から“のれん”の話に移る準備が、ようやく整ったわけですが、ここでブログの記事らしく、二○一七年六月二六日現在で社会的トピックスになっていることについて少々。

今の日本政府であるAB政権は、誰もが知っている抜き差しならぬ事情により、かなり威信の低下がみられるようです。いや、ぜんぜんそんなことないよ、一強盤石だよ、と主張する強情な人もいるようですが、僕は素直なタイプですからそうは思いません。大学の期末評価でいえば、CもしくはDレベルにあると想像されます。もはやE、つまり落第だとする意見も少なくないのです。ABCDか、いやEだという非常に分かりにくい書き方をしましたが、ここで言いたいのはほかでもありません。選挙(山口県第四区)で一○万票ちょっとの直接的支持があっただけなのにAB総理は近ごろ独善的過ぎるのではないか、ということです。所属しているGB党の“保守のれん”の価値を、きちんと継承していない可能性が大いにあります。僕はGB党の党員でも支持者でもなく、たまたま“のれん”を考察している男に過ぎないのですが、AB(独善)GB(のれん)という式が成り立つと思っています。

いやはや、重ねがさね持って回ったような抽象的記述になってしまいました。その道の専門家ではないので、ある程度の“逃げ”はお許しください。

それはそれとして、本題に戻りましょう。どんな研究ジャンルにも、決定版と言われるような本があります。暖簾と“のれん”の分野においては、すでに紹介した「暖簾考」と「商家同族団の研究」(上・下巻 中野卓著 1978年)が両横綱。といっても大関以下はほとんどいないのですが、後者には「暖簾をめぐる家と家連合の研究」という副題がついています。いわゆる学術書であり、高価な本ですから、このブログの想定読者(とりあえず三十代前後の会社員、ひいて言えば日本の大人一般)の興味をひくとは思いません。しかし“のれん”の原理・原則を詳しく説明するため、そんなことは気にせず、以下引用します。

「商家同族団の場合、これらの家々の系譜的な連続と関連は、暖簾の同一によって象徴されており、その限りで、暖簾内と呼ばれてきたのである。」

「暖簾を媒介とし、それゆえに暖簾内としての商家同族団の制度が一般化し確立した江戸中期(後略)」

「暖簾内は、暖簾をひとしくする本家・分家(親族分家)・別家(奉公人分家)よりなる階統的な家連合である。これを結び付けているものは、暖簾をもって象徴されている系譜の連続分岐の相互承認と、それにもとづく社会的・経済的信用であり、それに裏付けられた生活共同である。」

難しい文章です。とはいえ、くどいくらい繰り返し出てきますから、読めばすぐに気づくでしょう。そう、キイワードは「暖簾内」です。暖簾という物質名詞が、商人の同族意識を表す言葉に転用されたことを示します。

そしてこの暖簾内には、「イエ(家)」という、例によって首尾一貫しているようでもあるし、ご都合主義のようでもある、日本独特の社会制度が大黒柱のように立っているのでした。

 

「のれん式」という仕事の作法 その5

<布きれ一枚、そのこちら側>

 ──── 「暗い」

 暑い夏の日ざしを避けて、丸に越の字の紺暖簾をくぐって店内に入ったとたん、高橋義雄の受けた印象がこれであった。

(同じ三井でありながら、銀行とはまるで違う。明治の御世も二十八年というのに、ここはまだ江戸時代がそのままつづいている)

 

 引用したのは「三越三百年の経営戦略」(高橋潤二郎著 1972年刊)の一節。三井銀行大阪支店長だった三五歳の高橋義雄が、経営の立て直しのため、越後屋・三井呉服店(後の三越百貨店)に初めて訪れたときの模様が小説風に書かれています。

──── この第一印象は奥の一間に入り、(中略)主だった人びとの慇懃な挨拶を受けるに及んでいよいよ深まり、高橋は、今さらながら自分の引き受けた仕事の重みを感ぜざるをえなかった。

暖簾の歴史が明治時代へすっ飛んでしまいましたが、それなりの理由はございます。室町時代から約五百年、現代の感覚からすれば、どの店も“売りもの屋”としか言えなかった素朴な場所が、商いの内容も店の構えも、商家と呼べるまでになりました。なかでも江戸時代に商売を拡げたいくつかの大店は、百貨店の形を取り始め、様相も一変しつつありました。とはいえ、暖簾が“布製ドア”として機能していたことに変わりはなかったのです。繰り返しになりますが、商売用具としての暖簾の基本的な働きは、定着し始めた時代から今日に至るまで、ほとんど変わっていないのです。

「この長暖簾を店土間と奥との通路にかけている店もある。この場合はこれを潜り(くぐり)暖簾と呼び、また店座敷と奥座敷との境に、この長暖簾をかける場合もある。これを座敷暖簾という。」(「暖簾考」より)加えて店の表側には、シーツのような太鼓暖簾(風に吹かれるとバタバタと太鼓を打つような音がするから)があったわけで、あちこち暖簾だらけ。主人も店員も、毎日毎晩、店の暖簾に囲まれて生活していました。

ここで話したいのは前述した(B)の事態がもたらしたメンタリティーについてです。近代的経営に辣腕を振るい、茶人としても名を成した高橋義雄が、暖簾を潜ってピンときたのは、言うまでもなく当時の三井呉服店の雰囲気の暗さ、経営の重さです。そのとき彼は暖簾の“外側”から来た人でした。

一方、内と外を仕切る布製ドアの物理的機能にこだわり、その内側の商人や職人に思いを馳せれば、ひとつの強固な仲間意識を思い浮かべることができます。そもそも、ヒラヒラした木綿の布一枚で、こちら側と向こう側を仕切ったと決め込むなんて、暖簾とは無縁の外国の人にはとうてい理解できない合理性であり、想像力の逞しさです。身勝手と言えるほどです。

客との境界をきっぱりと示しているような、それほどでもないような。遮蔽性という意味でも、内側の様子が見えるような、見えないような。昼間のうち外の光を遮るような遮らないような、夜は店の灯りが漏れないような漏れるような。暖簾が仕切るこの独特の空間で一日中、そして一年中、さらに何年も何十年も働いていたら、暖簾エートスとでも表現したくなるものが生まれてもおかしくありません。

僕の田舎(伊豆)の生家は、昭和の初期に小さな料亭をしていました。その後、同じく小さな割烹旅館に業容を変えたあと、時代の変化とともに尻すぼまりになって廃業したのですが、暖簾の内側で暮らすことの気分は理解できます。

西洋の文化が石と鉄に象徴されるとすれば、日本の文化は木と紙の文化であり、その延長線上に布製ドアの存在があったと言えるでしょう。ヒラヒラした暖簾一枚で内と外を仕切っている(仕切っていることにした)ため、内側にいる人間は、内側であることをより一層意識する必要が自然発生的に生まれたとは考えられないでしょうか。物性的に足りないところは気持ちで補う。まさしく精神論ですが、その結果、同じ店の人間であるという気持ちを年がら年中確認し合っているという、相互監視であり相互扶助でもあるような、お馴染みの日本的精神をもたらしたのでしょう。仕切り道具としての暖簾の存在が、利害や性格の違いを超えて、家族や使用人同士の絆をつなぐことにひと役買ったのです。商家内における自然で微妙な仲間意識、それが暖簾エートスです。

 さて、この場で考えていることは、森友学園加計学園において討議されている問題ほど複雑でないはずですが、話が少々理屈っぽくなってしまいました。

けれども、「のれん式」は暖簾と“のれん”の関係性を解析することによって・・・いけません、また理屈っぽくなっちまった。

「のれん式」という仕事の作法 その4

<いつもの名前で出ています>

室町時代に、民家の生活用品としての暖簾が商家の商売用具としての暖簾に転化しました。そしてその商売用具としての暖簾には、商業の発展とともに、つまり商家の活動の充実とともに、新しく二つの大きな状況が生まれました(完成をみるのは江戸時代)。ひとつは、(A)トレードネームやトレードマークが染め付けられた結果、人が行き交う町の中において、ひとつの表象性(目に見える意味性)を持ったこと。ひとつは、(B)店で働く人にとって、目隠し・日除け・埃除けといった機能を超え、店内と外の世界(客や往来)を仕切る、もしくはつなぐ“布製ドア”となったことです。

ではまず(A)の事態が、“のれん”の価値のどんな要素を生み出していくことになるのか、私論を展開していくことにします。前のパラグラフで、暖簾がサインとして、またシンボルとしての働きもするようになったと書きました。このあたりの事情を、やや横道にそれますが、個人ブログの自由さに甘えさせてもらって、“記号論”的に説明してみたいと思います。

 記号論といってもここでは、二〇世紀後半に流行った構造主義の、弟分のよう

なあれとは“流派”が違います。記号(主に視覚的表象)を、その働きや意味することの広さ、複雑さなどによって、シグナル、サイン、シンボルの三段階に分けるという、単純で理解しやすい分析法です。

たとえば魚屋を始めた太助さんが、店の暖簾を海の色に染めたとしましょう。けれどもその段階では、太助さんに「暖簾の青は海を象徴していてウチ店の目印なのですよ」と教えられなければ、客は意図しているところが理解できません。けれども一度その事実を知り、さらにまた別の魚屋の暖簾も青く染められたりしたら、多くの人が暖簾の青は魚屋の目印であると思うようになります。その段階の暖簾を、魚屋のシグナルと呼ぶことができます。シグナル、つまり信号ですから、交通信号の緑・黄・赤や手旗信号、昔のモールス信号などをイメージすれば、それ以下でも以上でもないという意味のレベルがよく分かるでしょう。室町時代初期の物売り屋の暖簾は、何かの意味を伝達していたにしても、シグナル的な段階だったと仮定できます。

 では太助さんが商売をしていくうちに、無地の青い暖簾では飽き足りなくなり、子供が描いたような単純な魚の図形を暖簾に染め入れたとしましょう。この場合はもちろん説明不要、誰が見ても魚屋であることがわかります。町に初めて訪れた人でも、太助さんの店で魚を買うことができます。このとき暖簾はそれ自体が魚屋を表しており、サインとしての働きを持ったと言うことができます。

 次に、太助さんの商売が繁盛して、暖簾に見事な鯛の絵を入れ、「ととや太助」

という屋号もいっしょに染め込んだとしましょう。客たちはもちろん、通りがかりの人も暖簾を見て、立派な魚屋だとか新鮮だけれど値段が高いのではないかとか店主の性格が分かるとか、いろいろなことを考えます。こうなると「ととや太助」の暖簾は、ただ単に魚屋であることを伝えているだけではありません。長く使えば使うほど、単なる商売用具の域を超え、店のシンボルになっていきます。

江戸時代の呉服商や両替商などに代表される大店の暖簾は、あきらかにシンボルとして機能しており、主人から丁稚に至るまで、店で働く人の気持ちをひとつにするという非常に重要な効果も生まれていたのです。

 暖簾のこのような側面はブランドの概念を彷彿とさせ、一九七〇年代の初め頃は広告・マーケティング界などにおいても、ブランドは日本の“のれん”のようなものだ、と決め込む人も少なからずいました。たしかに、シンボル機能という部分だけをとればそうなのですが、“のれん”とブランドは、本来、民族性が違うと言えるほどそれぞれ異なる血筋を有しています。したがっていずれ「ブランド式」のほうも説明したく思いますが、まずは引き続き「のれん式」の原理・原則のようなものを浮き彫りにしたいと思います。

とはいえ、暖簾の話ばかりで、このブログの所期の目的である「のれん式という仕事の作法」に、いつたどり着くのかと不安になる読者の方がいるかもしれません(読者の方がいればの話ですが)。しかしできるだけこちらの気が済むように段階を追って説明していますので、まだまだ道半ばというところです。アベノミクスじゃあるまいし、いつまで道半ばが続くのだ、と揶揄されたとしても、この調子は変えません。次の回は、(B)の事態について。

 

「のれん式」という仕事の作法  その3

<暖簾は内、暖簾は外>

    訂正です。日本の暖簾の実用的機能として、「日除け・埃除け」と書いてきましたが、あとから言及するという意識が災いして肝心なことを除外していました。「日除け・埃除け」だけではなく、当然のことながら「目隠し」の用途がありました。付け加えておきます。

  

鎌倉時代から室町時代にかけて、民家の暖簾が商いの場でも利用されるようになったのですが、その過程で加わった注目すべき変化は大きく分けて二つあります。ひとつは、(1)暖簾に商売用の目印・屋号が染め付けられたこと。もうひとつは、(2)店の中と外とを仕切るほどの、単なる目隠しの域を超えるような長い布の暖簾が用いられたことです。(ちなみに暖簾は、おおざっぱに言って、横に長いのが水引き暖簾、縦に短いのが半暖簾、縦に長いのが長暖簾、店先に置くシーツのように大きいのが太鼓暖簾、という発達を遂げています)実はこの何気ない二つの性質が、その後“のれん”という概念を形成する上で重要な役割を果たすことになったと僕は考えています。

ではここで、さらにまた別の生き証人に登場願いましょう。「福富草子」という室町時代の絵巻物です。日本史の教科書におけるレギュラーメンバーにはなっていないようなので、知名度は低いようです。けれどもその物語は一度聞くと忘れられません。暖簾の史実とは直接的なつながりはないのですが、なりゆきですからページを割いてちょっと紹介しましょう。

正直者が得をして嘘つきの欲張りは損をするという教訓寓話は世界中にあって、なかでもイソップの「金の斧」は有名です。「福富草子」も同じ系列に属するといえるでしょう。しかしそのモチーフが、かなりお下品。なにしろ斧に相当するものが放屁、つまりお金になったオナラの話なのです。以下、そのあらまし。

貧しい男がある日神のお告げを受け、いろいろな放屁をする奇芸を身につけて披露したところ、貴族に喜ばれて大金をもらいました。それを知った隣の男は、とてもうらやみ、さっそく自分も放屁の芸を真似て、人前でやってみたのです。ところが大失敗、ことがことだけに悪臭や汚物をまき散らし、どうしようもないことになってしまったとさ。

谷峯蔵さんが「暖簾考」を書いた時代と違って、今は自分の家で横になっていても様々な絵巻物史料を見られますが、「福富草子」もそのひとつ。なかでも白百合女子大学図書館のホームページにおける所蔵貴重書コレクションは、秀逸です。全編オナラの話で満ちている絵巻物をなぜ白百合女子大学が所蔵しているか知りませんが、閲覧環境が良く、鮮明な画像情報を提供してくれています。

注目すべきは個性的な登場人物や放屁の風景ではなく、あってもなくてもいいような、点景として描かれているひとつの暖簾。絵巻物の中には、団子のような食品を売っている店の女と子供が、哀れな男を背丈ほどの長暖簾の脇から笑って見ている場面があります。(白百合女子大学所蔵版ではNO.10/19の画像)それは明らかに店の内と外を仕切っている長暖簾で、布には何か植物の絵(写本によって違いあり)が染められているのが分かります。

素朴な商品陳列棚の横に出入り口があり、そこに垂れ下がっている長暖簾。前述した「山王霊験記」の魚屋の暖簾と形状も使われ方も瓜二つです。すでにこの時代、商いをしている家の暖簾は、そこの人が創造的に作った目印であると同時に、店の内と外を分ける仕切り布でありました。今日的な言い方をすれば、客の目を引くオリジナルサインであり、内側の諸々を隠すパーティションでもあったのです。この二つの機能は、後に“のれん”と呼ばれるようになる商家の無形資産(価値)を分析、説明する上で非常に重要なヒントを与えてくれます。

さらに付け加えたいのは、時代が進むにつれて、暖簾の目印がその店の呼び名になったケースがあること。たとえば竹の絵を染め込めば「たけのや」、梅の花なら「うめのや」というわけです。屋号を作って暖簾に入れるのではなく、暖簾に入れられた図柄が屋号になった場合も少なくなかったようです。結果的に暖簾は、その店のサインとして取り扱い品や他の家との識別性などを単純に示すばかりか、屋号や個性、印象などを意味するというシンボル的な価値を持つことになりました。この要素もまた、暖簾という布製の商売用具の名称が、“のれん”と呼ぶ商家の無形資産の名前にもなった背景の一端を物語っています。